「富田林寺内 その二」

~地元の人たちによって町が開かれた~

富田林の寺内町は荒れた芝地を開発してあらたに造成されていきますが、町を開くにあたり、町を開くために力をふるったのはこの地域の住人たちです。

右芝地開発之儀、中野村、新堂村、毛人谷村、山中田村、
右四ヶ村庄屋株之者壱村より弐人宛都合八人罷出、芝地開発、
興正寺御門跡兼帯所御堂建立、其外畑屋敷町割等仕、富田林と改、
右八人年寄役ニ被相極メ役義相勤申候
(『興正寺御門跡兼帯所由緒書抜』)

中野村、新堂村、毛人谷村、山中田村、の四つの村から二人ずつ、合計八人が出て、芝地を開発したといっています。この四つの村は富田林寺内町に隣接する村です。地元の人たち八人が力をふるったのです。

御堂の建立と、畑や屋敷地などの町割りも、この八人が行なったと記されています。富田林の寺内町は、整然とした町割りがなされた町として、現在にのこされています。現在、のこされている寺内町の建造物などは江戸時代以降のものですが、町割りは当初から整然とほどこされていたものと思われます。八人によって区画されたものということになります。

富田林寺内町は、当初、周囲を土塁で囲っていました。中の広さは十一町ほどです。畑や屋敷地の町割りを行なったとありますが、土塁の中には屋敷地だけではなく、屋敷地と混在するかたちで畑もありました。

富田林との地名も八人によってつけられたもののようですが、この八人は町を開いたのみならず、町を開いてからは町の年寄役をつとめていたとも書かれています。八人が年寄役をつとめていたのは事実で、これ以後、江戸時代のなかばにいたるまで、この八人の子孫たちが年寄として集団で町を治めていました。

こうした八人の動向からするなら、富田林寺内町は興正寺の側が主体となって開いたというより、八人の側が主体となって開いたものとみるべきだと思います。興正寺の道場も八人に招かれるかたちで建立されたということになります。八人は興正寺の権威と力とを求めて、興正寺の道場を招いたのです。

富田林寺内町が開かれて以後、富田林の寺内町はさまざまな特権を獲得していきます。富田林寺内町が得た特権は、軍勢が町に入りこまないといったものや、町が経済的に優遇されるといったものです。こうした特権は富田林の町が興正寺の道場を中心とした寺内町となっていたからこそ得られるものです。八人が連合したところで、得られるものではありません。

  禁制 河州石川郡富田林道場
一当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事
一剪採竹木事並放火事
一相懸矢銭兵粮米事
 右条々堅令停止訖、若違犯輩在之者、速可処厳科者也、仍如件
   永禄三年七月七日
        下野守(花押) (「興正寺文書」)

河内国に勢力をひろげていた三好政康という武将が富田林の道場に宛てて出した禁制です。富田林寺内町で政康方の軍勢が狼藉をはたらいたり、放火をしたり、戦費を集めたりすることはないと約束したものです。

町が戦乱に巻き込まれないように得た保障ですが、富田林寺内町はこうした禁制を何人かの武将から得ています。武将同士の争いの絶えないこの時代にあって、戦乱に巻き込まれないというのは大きな特権です。

富田林寺内町には軍事に関わるものだけではなく、経済に関わる禁制も出されています。商業をする上でいろいろな制約を受けることがないように保障したものです。富田林の寺内町は自由な商業活動が保障されていたのであり、経済的にも優遇されていたのです。

これらの特権は町の中心に興正寺の道場があり、その道場が大坂の興正寺、ひいては本願寺へと連なるものであるから得られたものです。興正寺、そして、本願寺の力を背景に特権を獲得していったのです。富田林寺内町は、安見直政という武将から町を大坂の寺内町と同様に扱うとの保障も得ています(『興正寺御門跡兼帯所由緒書抜』)。大坂と同様の特権を認められているのです。大坂は本願寺の支配した地です。まさに本願寺に連なっているからこそ得られた特権です。

八人に招かれたとはいえ、富田林寺内町の中心は興正寺の道場であり、興正寺が寺内町の領主です。八人の立場は興正寺に従うべき立場です。八人は町の運営にあたりましたが、それは興正寺の権威と力とを後ろ盾にしてなされたものなのです。

(熊野恒陽 記)