「源鸞上人」

~裳無衣と黒袈裟~

了源上人が亡くなったあと、佛光寺は源鸞上人が引き継ぎます。源鸞上人は了源上人の長子で、興正寺の歴代としては、第八世にあたっています。上人の諱は専性といい、のちには了英と称したとも伝えられます。佛光寺を継いだ時、上人はわずかに十八歳でした。

伝えられるところ、上人が得度したのは十三歳の時で、天台宗の妙法院門跡で得度したといわれます。戒師は後醍醐天皇の皇子である尊澄(そんちょう)法親王だったとされています。上人が本当に妙法院で得度したのかは疑問ののこるところで、後醍醐天皇の皇子が戒師であったとすることなど、いかにも作為的なものを感じます。佛光寺では何かにつけ後醍醐天皇との関わりを強調する傾向がありますから、この伝えにしても、そうした傾向のなかいわれ出したものと思います。妙法院ということにしても、のち佛光寺の住持は代々妙法院で得度することから、それを源鸞上人にも当てはめたとみるべきで、佛光寺と妙法院とが深く関わっているとはいえ、源鸞上人の時代から佛光寺の住持が妙法院で得度していたとは思えません。

上人が継いだ際の佛光寺の様子を詳しく知ることはできませんが、佛光寺は了源上人が一代で築き上げたものであるだけに、了源上人が亡くなったことからくる影響には大きなものがあったとみられます。その最たるものは本願寺の覚如上人による佛光寺批判で、覚如上人の佛光寺批判は了源上人の没後となって、より過激なものとなっていきます。了源上人の死がもたらした混乱に乗じて、佛光寺を批判し、本願寺の優位性を主張しようとしたもので、ほとんどこじつけのような批判がくり返されています。

了源上人の没後八年目にあたる康永三年(1344)には、覚如上人は関東の真宗門徒たちに対し、佛光寺へ立ち寄ることを禁じるとともに、佛光寺に対する六箇条からなる批判をかかげますが、そのなかには源鸞上人の名に対する批判すら挙げられています。

一、祖師御名字之字不可付之事(二十四輩名位)

源鸞上人の鸞の字が親鸞聖人の鸞をとったもので、それが不敬だと批判したものです。覚如上人は親鸞聖人をいうなれば本願寺の独占物としようとの思惑をもっていましたから、覚如上人にするなら、佛光寺の住持が聖人の名字を用いることなど許されないことと受けとめられたのでしょう。

このほか覚如上人の批判は名帳や絵系図などにも向けられますが、それとならんで裳無衣(もなしごろも)と黒袈裟を着用することに対する批判も挙げられています。

一、裳無衣黒袈裟不可用之事

裳無衣とは、衣の裾の裳の部分を略した丈の短い衣のことで、黒袈裟は黒色に染めた袈裟のことです。覚如上人がなぜ裳無衣と黒袈裟を用いることを批判するのかは、この記述だけでははっきりとしませんが、覚如上人は『改邪鈔』でも裳無衣と黒袈裟の着用を批判していて、そこにその理由が述べられています。

世法を放呵するすがたとおぼしくて裳無衣を著し黒袈裟をもちゐる歟…
当世都鄙に流布して遁世者と号するは、多分一遍房、他阿弥陀仏等の門人をいふ歟、
かのともがらはむねと後世者気色をさきとし仏法者とみへて威儀をひとすがたあらはさんとさだめ振舞歟、わが大師聖人の御意はかれにうしろあはせなり

裳無衣と黒袈裟は、世を捨て、仏法ばかりに専念する姿を誇示するために着用するものである。親鸞聖人は世を捨てたところに仏法を求めたのではない。いま世間に流布する一遍、他阿の時衆はわざと世を捨てた仏法者の振る舞いをしていて、聖人とは全く逆である、といっています。覚如上人は時衆と真宗の精神のあり方の違いを批判しているわけで、そこから派生して、時衆の用いた裳無衣と黒袈裟を着用することを批判したものといえます。覚如上人のいうように、裳無衣と黒袈裟はもっぱら時衆が用いたものでした。

ここからすると、佛光寺には時衆の影響を受けて、裳無衣や黒袈裟を用いる者がいたということになります。現在のこされている光明本尊の絵像や了源上人の木像などから判断して、佛光寺が一寺をあげて裳無衣と黒袈裟を用いていたとは、到底、考えられませんが、なかにはそうした者もいたということなのでしょう。もとよりそうした者がいたところで何の不思議もなく、そのことを指して聖人に背くものと批判するのでは、些事をあげつらったあまりに大げさな批判といわざるをえないでしょう。

(熊野恒陽 記)